<「和紙 日本の手漉(てすき)和紙技術」>登録の対象となっている和紙は、島根県の「石州半紙(せきしゅうばんし)」、岐阜県の「本美濃紙(ほんみのし)」、埼玉県の「細川紙(ほそかわし)」の3件。 石州半紙は、すでに2009年、ユネスコの無形文化遺産に登録されているが、今回は、石州半紙に本美濃紙と細川紙を加え、「和紙 日本の手漉和紙技術」として登録を目指している。
日本政府は2013年春、ユネスコ無形文化遺産登録に向け、提案書を提出している。【追記10月28日】⇒国連教育科学文化機関(ユネスコ)の補助機関は「和紙 日本の手漉和紙技術」を無形文化遺産に登録するよう勧告した。登録勧告が覆された例はなく、11月下旬にフランス・パリで開かれるユネスコ政府間委員会で登録が決まる見通しだ。
【改めて提案した登録】 本美濃紙はユネスコの無形文化遺産として、平成21年に一度、登録の提案をしたが、すでに登録されている島根県の石州半紙に似ていることから登録が見送られた。 このため、文化庁は去年、石州半紙や埼玉県の細川紙と共に改めて本美濃紙を「日本の手漉き和紙技術」として、無形文化遺産に登録する提案書をユネスコに提出していた。
【1300年に及ぶ歴史】 「本美濃紙」は、岐阜県美濃地方で作られる美濃和紙の中でも厳選されたこうぞを原料に、昔ながらの手すきで1枚1枚仕上げるすきむらのない美しい高級和紙だ。 美濃地方で作られた和紙は、正倉院に残る戸籍の紙にも使われており、その歴史は1300年に及ぶとされいる。 なかでも本美濃紙の技術は、美濃市の保存会の職人たちに受け継がれ、国の重要無形文化財に指定されている。 「細川紙」は埼玉県小川町と隣の東秩父村に受け継がれてきた手すきの技術。 歴史は1300年と言われ、丈夫で薄い和紙を作る技術は国の重要無形民俗文化財にも指定されている。
「和紙」は「1000年以上」とも言われる驚異的な保存性と、強靱で柔らかな特性を持つ世界に類を見ない優れた紙である、そのため世界中の文化財の修復にも使われいる。 その和紙を作る手漉(てすき)の技術が消滅の危機に瀕しているのをご存じだろうか。 全国手漉き和紙連合会によれば、現在日本で和紙を漉いている家はわずか295戸。20世紀の初め、1901年には6万8562戸だったので、100年あまりで230分の1に減った計算になる。そして今なお、減少のペースは加速を続けているようだ。
「和紙の話」
日本に紙の作り方が伝わったのは、今から1400年前、西暦610年といわれる。『日本書紀』によれば、この年渡来した高句麗の僧・曇徴(どんちょう)が紙の製法を伝えたという。これより前から、国内で紙漉きが始まっていたとする意見も多い。
伝来した手法の源流は中国にある。曇徴の来朝から500年も前の西暦105年、後漢の官吏・蔡倫(さいりん)が紙を発明したと『後漢書』にある。ただし中国では、さらに250年ほども遡った紀元前2世紀の紙が見つかっている。現在では、蔡倫は紙の発明者というより、製法を確立し、世に広めた人物とされる。蔡倫がつくった紙は蔡侯紙と呼ばれ、それまで使われていた絹布や木簡の代わりに、文字を書き記す素材になった。
日本で当初漉かれた紙も、蔡侯紙と同様に書写に使われた。写経や行政用の記録といった用途である。正倉院に残される日本製の最古の紙には、西暦702年当時の戸籍が記されている。770年に完成した『百万塔陀羅尼(だらに)経』は、現存する世界最古の印刷物の一つとされる。世の平静を願い、陀羅尼と呼ばれる呪文を印刷して百万の小塔に収めたものである。
平安時代になると、紙は文字だけでなく情緒を載せる媒体に発展した。貴族社会の中で、紙を染め、継ぎ、文様を擦り込むといった、きらびやかな加工技術が花開く。女性は和歌を詠む薄様の紙を懐に忍ばせ、『源氏物語』は色鮮やかな絵巻物に仕立てられた。平安文化を彩った数々の技法は、当時の写本『西本願寺本三十六人歌集』などに、その美をとどめている。
江戸時代にもなると、紙は日常生活の隅々まで行き渡る。漆を塗った紙は器や煙草入れに変わり、油を引いた紙で傘を張り、揉んだ紙を衣類に仕立てて紙衣(かみこ)と呼んだ。元結紙で髷を結い、ちり紙で鼻をかんだ。正月にはおみくじでその年を占い、暑い夏を扇子でやり過ごした。大人は熨斗紙や水引で礼儀を示し、子供は折り紙やかるた、凧で遊んだ。
このころ日本は、世界でも最先端を行く紙の先進国だったらしい。17世紀初頭、伊達政宗が支倉(はせくら)常長を団長とする親善使節団を欧州へ派遣した際は、一行がフランスやイタリアで使い捨てた鼻紙を現地人が貴重品として争って拾い集めたという。当時、日本と接点があったオランダでは、和紙を好んだレンブラントが何度も銅版画に使っている。
多彩な用途を支えたのは、全国で生産された様々な和紙だった。京都の女性に「やわやわ」と呼ばれて愛された極薄の吉野紙。公文書用として名高い越前の奉書紙。障子紙の最高峰は本美濃紙で、襖には名塩の間似合紙。用途や産地に応じた和紙の呼び名は枚挙にいとまが無く、どの地方にも大抵、名のある紙がある。
こうして和紙が独特な生態系を形作るまでには、長い歳月が必要だった。ところがその瓦解に要した時間はごく短い。契機となったのは、明治維新以降の日本社会の変化である。安価な洋紙が和紙を圧倒し、西洋風の生活慣習が日本の紙の居場所を狭めていった。
その洋紙も、起源をたどれば中国に行き着く。けれど、東西に分かれて伝播した紙がたどった進化の方向性は、日本と西欧で全く違ったものだった。
西暦751年、中央アジアのタラス河畔でイスラム帝国が唐との戦いに勝った。このときの捕虜に紙職人がいたことが、製紙法が西に伝わった第一歩とされる。その直後にサマルカンドに製紙所ができた。欧州は、イスラム圏を通じて紙の存在を知る。当初は輸入に頼っていたが、12世紀ごろから西欧の各地に製紙所ができていく。
欧州での紙の生産に多大な影響を与えたのが、1450年ごろにグーテンベルクが実用化した活版印刷である。これにより、書籍に対する爆発的な需要が生まれた。日本人が紙の用途を生活の随所に広げている間、欧州は印刷に向く紙の量産に目標を定め、その方法の模索に注力した。その成果として、17世紀のオランダで紙の材料の繊維をほぐし切断する「ホランダービーター」が発明される。1800年前後には、自動的に紙を漉く抄紙機がイギリスやフランスで稼働を始めた。
欧州でずっと問題だったのは、紙をつくる原料の慢性的な不足だった。鼻をかんだ紙まで奪い合った一因は、和紙の品質もさることながら、欧州では使い捨てにするほど紙を量産できなかったという事情による。長い間洋紙の材料は、使い古した衣服などのぼろ切れで、確保できる量が自ずと限られていたのだ。江戸時代が終わる19世紀半ばになって、この問題の決定的な解決策が誕生する。木材からパルプをつくる手法が誕生したのである。これによって原料不足は一挙に解消し、和紙と比べて圧倒的に安く紙をつくるシステムが確立した。
日本で最初に機械漉きの洋紙が製造されたのは、木材パルプの発明からほどない1874年。当初は和紙と比べて品質も劣り、人気もなかったようだ。しかし、1903年に小学校の国定教科書で洋紙を採用したころから徐々に生産が伸びていく。和紙の側は機械化や材料の工夫で対抗したが、所詮は相手の土俵の上であり、勝ち目は薄かった。和紙の作り手がたどった道のりは、冒頭で述べた通りである。
和紙の良さは、簡単には破れない強さや、長期にわたって傷まない保存性の良さ、独特の肌合いなどにある。それを形作ってきたのが、植物の皮から人手で採取した繊維を、独特な手漉きの技法で加工する製造方法だった。樹皮が含む繊維は長く、手漉きによってよく絡むため、強靱な紙ができる。1000年も持つとされるのは、製造中に繊維を傷めにくく、添加物が少ないからである。全国の紙漉きは、細かい素材の特性を引き出し、漉き方の工夫を重ねることで、厚さや風合いの異なる、さまざまな紙を生み出してきたわけだ。
洋紙の作り方は、和紙とは対照的である。全国手漉き和紙連合会会長の成子哲郎は、「和紙は素材の良さを引き出しているだけ。洋紙は逆に、素材の特徴を消すような作り方をしている」と表現する。洋紙の原料であるパルプは、機械や化学薬品によって木材から抽出する。歩留まりは高いが繊維は傷む。加えて、紙の特性を改善するために加える数々の薬品が、後々紙を傷める原因になる。だから洋紙は1000年も持たない。しかも、和紙と比べればはるかに破れやすい。パルプが含む繊維が短く、機械で漉くと、そこまで繊維が絡まりあわないからである。
その代わり、洋紙は極めて安価だ。機械や薬品による表面処理で、光沢度や平滑性は高く、印刷も容易である。添加物や処理方法を変えれば、色々な紙を設計することも可能だ。同様の処理を施していない昔ながらの和紙は、概して表面が粗く、印刷機にかけると紙の一部が剥離する「紙剥け」が生じやすい。インクの乗りも悪い。それは、柔らかな風合いと裏腹なのである。
(出典: 日経テクノロジー「「和紙」 第1話 『生きた紙が滅びるとき』」より抜粋)
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