<反骨の救命救急医>阿南英明・藤沢市民病院救命救急センター副センター長 (東日本大震災秘話Part2)

阿南英明医師が副センター長を勤める「藤沢市民病院救命救急センター」は年間約3万人の患者を受け入れる全国でもトップクラスの救命救急拠点として知られているのだそうだ。 私は不明にもこの日経ビジネスの記事を読むまではしらなかったのだが…

東日本大震災から1年、震災直後の被災地救援活動での知られざる「東日本大震災秘話」が語られ始めている。 3月18日にこのブログで取り上げた産経記事「医薬品輸送、女性医師が米軍を動かした」の「有井麻矢医師」も然(しか)り。 今回のブログ投稿は、大震災そして併発した福島第1原発事故で日本DMATの災害医療チーム派遣を指揮した「反骨の救命救急医・阿南英明」の話である。 日本にはすばらしい人達がいっぱいいる。 日本はまだまだ捨てたもんじゃない。 私はそう信じる。


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旗手たちのアリア
反骨の救命救急医
藤沢市民病院救命救急センター副センター長
阿南英明

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東日本大震災で災害派遣医療チームDMATの活動を裏で支えた。「救急医療のデッドスポット」と呼ばれた地域で救命救急体制を確立。権威には徹底的に背を向け、患者基点の合理的な組織作りに取り組む。

東日本大震災から1年が経とうとする頃、神奈川県藤沢市民病院の医師、阿南英明の元に、ある高校の教頭先生が訪れた。

「生徒の前で震災の経験を伝えてほしい」。そんな依頼に、阿南は少し戸惑った。高校生たちは自分の話をきちんと受け止めてくれるだろうか。できるだけ詳しく震災の経験と教訓を伝えるため、阿南は震災直後の自らの記憶をたどり始めた。

1年前の3月11日夕方。阿南は藤沢市の消防本部が用意した自動車の助手席に乗り込み、一路、東京都立川市にある国立病院機構、災害医療センターを目指していた。消防の無線からは被災地の深刻な状況が伝わってくる。「一刻も早く医療チームを送らなければならない」。気持ちばかりが急いだ。

藤沢市民病院救命救急センター副センター長の阿南は、厚生労働省や都道府県などの下に組織された災害派遣医療チーム「日本DMAT(ディーマット)」の中核メンバーでもある。

DMATとは「大地震及び航空機・列車事故といった災害時に被災地に迅速に駆けつけ、救急治療を行うための専門的な訓練を受けた医療チーム」(日本DMAT活動要領)である。医師、看護師、業務調整員から成る自己完結型のチームで、全国に約1000チームある。

平時は全国各地の病院などに勤務しているが、災害が起きた際には48時間以内をメドに被災地に急行し、医療救護団が到着するまで現場の医療を支える。阿南はその立ち上げから関わり、運営幹部の1人として隊員にトレーニングなどを施してきた。

災害医療センター内にある日本DMAT事務局に到着したのは日が暮れた頃。既に事務局員によって全国のDMATに待機要請が出されており、被災県の近隣からはいくつかのチームが現場に向けて動き出していた。阿南は現状を把握し現場の統括者とともに全DMATの指揮に乗り出す。ここから阿南の眠れぬ9日間が始まった。

■ 原発事故巡り苦汁の決断

課せられた使命は、ほかの医療救護団が活動を始めるまで、全国に散らばるチームをスムーズに被災地に派遣すること。必要に応じて重症患者を被災地の外に広域医療搬送することなどだ。震災翌日には自衛隊の輸送機を使って全国から82チーム、384人の隊員を岩手、宮城、福島、茨城の各県に派遣した。

次々と不慮の事態が襲う中で、阿南を最も悩ませたのが、福島第1原子力発電所事故への対応だ。福島県には震災当日からチームが入り、15日に撤収している。だが現場では深刻な事態が進行していた。半径20km圏内に避難指示が出され患者の搬送が行われたが、医療が介在しておらず数十人の命が失われた。3月15日に半径20~30km圏内で屋内退避の指示が出ると、今度は圏内の病院が孤立状態に陥った。

患者を安全に移動させられるのは、専門のトレーニングを受けたDMATをおいてほかにない。現地に入っていたDMAT事務局次長の近藤久禎は、阿南に再度のDMAT派遣を持ちかけた。近藤は、阿南の親友であり、災害医療及び放射線医療のスペシャリストでもあった。

だが、阿南はすぐに再派遣を決断することはできなかった。DMATは放射線医療の専門家集団ではない。派遣がどの程度のリスクをもたらすのか、判断がつきかねた。そもそもDMAT事務局には各地のチームに派遣を「命令」することはできない。派遣するか否かを決める最終的な権限は各都道府県にあった。

結局、近藤の説明と分析を聞いた阿南は、熟慮の末、DMAT派遣を決断する。都道府県に対しDMAT派遣を再度要請すると同時に、放射線医療に心得のあるチームに個別に連絡を取り出動を依頼した。さらに、500人前後の患者を航空機を使って県外に搬送すべく、全国の病院に受け入れを打診。自衛隊の協力も確約した。

実は、この広域搬送計画は結果として、幻に終わっている。福島県が独自に陸路を中心とした搬送計画を立てており、そちらが優先されたからだ。それでも、福島県の計画が順調に進み、1人の死亡者も出さずに搬送を完了させることができたのは、DMATによるサポートがあったからにほかならない。

嵐のような日々を終え、阿南が一時帰宅したのは震災から9日後のことだった。

講演会当日、高校生たちは、阿南の話に熱心に聞き入っていた。そんな彼らを前にして、阿南は医療の道に進むことを決めた自らの学生時代をダブらせた。

1965年、阿南は2人兄弟の長男として生まれた。憧れの人物は織田信長。既成概念を打ち破る姿に憧れた。後に神奈川県有数の進学校で知られる横浜翠嵐高校に入学。体操部に所属する傍ら、社会問題に興味を持ち社会科教師や友人と議論して過ごすなど充実した学生時代を送る。

当時の阿南には2つの夢があった。社会問題を解決する弁護士の道と、人々の命を救う医師の道だ。どちらを目指すか。理系科目より文系を得意としていたので、弁護士の方が進みやすい道ではあった。だが阿南が選択したのは後者だった。

■ 医者は仕事するだけ人を幸せにする

一見、明るく活動的に見える阿南だったが、実は神経が細く、ストレスにも弱かった。常に周囲に気を使って日々を過ごしていたため、夜になると、急性の胃腸炎にしばしば襲われた。夜中に救急車で病院に搬送されたことも1度や2度ではない。深夜にもかかわらず懇切丁寧に診察し、激しい痛みを除いてくれる医者に出会う一方で、いつまでたっても診察してもらえず、朝方まで放置されることもあった。

それは救命救急医としての阿南の原体験となった。「弁護は勝ち負けの世界だから、人を不幸にする可能性がある。一方で医者は懸命に仕事をすればするだけ、人を幸せにできる」。そう思い定めて新潟大学医学部医学科に進む。

家庭は裕福ではなかったので学費は免除された。「自分は国民の税金で医者にさせてもらう」。そんな思いも手伝って阿南は勉強に明け暮れた。

そこには胃腸炎に悩む、か細い精神の持ち主の姿はなかった。人の命に関わることに、恐ろしさを感じなかったわけではない。むしろ、その恐怖を克服するために勉強した。当時の教科書は今も職場の本棚に納められ現役で活躍している。中には小さな直筆の文字がびっしりと、隙間なく書き込まれている。どこに何が書いてあるのか、阿南は今も完璧に把握しているという。

ただ医学部は知識を詰め込むところで、実践的な医療を学ぶ機会は少ない。阿南は早く現場を知って一人前になりたかった。そこで近隣の病院に頼み込んで見学生にしてもらい、大学が長期の休みに入るたび、病棟の空きベッドに寝起きしながら病院で働いた。一方、大学で解剖学の授業がある時は、授業翌日の深夜3時頃まで人間を形作る組織の把握に没頭した。

カネがないので生活はつましかった。下宿先は新潟市内で一番家賃が安い、賃料1万円のボロアパートだった。新潟の冷たい隙間風が入り込むので、冬になるとテーブルの上のミカンが凍った。それでも灯油ストーブに頼るのは稀まれ。2年間で使用する灯油の量は一斗缶2つ(約36リットル)に満たなかったという。高価な医学書は買えなかったので、友人から借り受けて内容を丸暗記した。

大学に残って教授を目指そうとは全く思わなかった。91年、医学部を卒業した阿南は、藤沢市民病院の内科研修医としてキャリアをスタートさせた。阿南の目から見ても、当時の同院は未熟な体制の病院に映った。その代わり研修医もベテランとともに第一線に立って活躍している。その様子を見て、「ここは実力さえあれば何でもやれる」と阿南は考えた。

 そもそも、当時は阿南のように救命救急を志す医師自体が少なかった。医学は研究領域の専門化、細分化が進み、ほかの領域に関心を示さない医者も多い。救命救急をやりたいと話すたびに、「それでおまえは内科医になりたいのか、外科医になりたいのか」と問われ、うんざりしたという。

救急の現場ではどんな症状の患者が飛び込んでくるか分からない。いつ呼び出されるかも予測がつかない。幅広い知識と経験、そして体力や気力を必要とするので、救急を嫌がる医者がいるのも事実だ。「スペシャリストよりゼネラリストを、研究よりも実学を重視する」。救命救急に必須の思想と言えるが、そんな医師像を掲げて働く阿南は、周囲からはちょっと浮いた存在だった。

■ お荷物職場からの脱却を指揮

ただ救命救急体制の構築は病院にとって不可欠な取り組みでもあった。というのも藤沢市は「救急のデッドスポット」と呼ばれるほど急患の受け入れ先が少なかったからだ。夜間は当直の医師が詰めているものの、昼は急患に常時対応できる医師すらいなかった。

そこで阿南は98年、3人の同志を募って救急部を立ち上げた。といっても普段はそれぞれの科に属し、通常の診療を行う。つまり掛け持ちの医師だ。当然、休みなどなくなる。「今は自分たちが血を流す時」だと覚悟して取り組んでいたという。自分よりも若い専門医に頭を下げて教えを請うこともあった。専門医から診療内容が十分でないと批判されることもあった。

激務が続く中、「1人の医療スキルがいかに優れていても、組織で対応できなければ救急は実現できない」と思い至った。2006年、藤沢市民病院は重症患者を受け入れる第3次救急医療機関に指定され、救急科は救命救急センターに衣替えすることになった。その機を逃さず阿南は大幅な組織改革に着手する。目指したのは「医師が疲弊する職場」からの脱却だ。

これまで、夜間の急患には外科や内科など様々な診療科の医師が当直で対応してきた。昼間に勤務した医師がそのまま朝まで働き、次の日も休まずに働く。要するに2日間働き通しだ。救命救急は医師をすり減らす「お荷物職場」でもあった。

そこで阿南は救命救急センターの立ち上げに当たり、当直制の代わりにシフト制を導入した。2~3人の医師を交代で夜間勤務に専念させる。その前後に昼間勤務が強制されることはなく、週の勤務時間が40時間を超えることがないよう調整をした。

こうした充実した救急体制を築くには、他科の理解が不可欠。当然、阿南は手を打っていた。救命救急の体制が充実すれば、他の診療科は急患や当直に悩まされることなく自分たちの専門領域に集中できる。

さらにセンターに集中治療室(ICU)を6つ作り、これまで各科が担ってきた重症患者のケアを救急医が担うようにした。集中治療室に入る患者は複合的な疾患を抱えていたり、多発性外傷を負っていたりする場合が多い。それは各科の専門医より救急医の得意分野だった。

こうして互いにメリットのある仕組みを取り入れ、マネジメントすることで、阿南はこれまでにない救急医療体制を作り上げた。数多くの患者を受け入れられるようになり、今や救命救急センターから入った患者が病院の運営を支えている。

24時間、365日途切れることのない救命救急のニーズに応え続けるためには、医師個人の能力もさることながら、継続性のある組織と、それに対する正しいマネジメントがなければならない。だからニーズが変われば組織も変わる。重要なのは、「いつ、いかなる時でも、医療を必要とする患者を受け入れ救う」というぶれない信念があるか否かだ。

震災から数日の間、DMAT事務局で指示を出し続けた阿南を支えたのは、実はそんな思いだった。目を閉じると、被災地からの悲鳴や怒声が頭の中に響き渡る。本当は自分が真っ先に現場に駆けつけて被災者を救いたかった。だが自分がいなければ組織が動かない、組織が動かなければ人は救えないと踏みとどまった。

震災を通じて、日本の救急医療や災害医療の課題が改めて浮き彫りになった。その反省を基に、阿南は今、日本全体の救急医療の体制作りに乗り出そうとしている。

=敬称略(飯山 辰之介
(日経ビジネス2012年3月26日号「人」、136~139ページより)

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阿南 英明(あなん・ひであき)
1965年   東京都板橋区に生まれる
91年   新潟大学医学部医学科卒業。藤沢市民病院に着任
94年   横浜市立大学救命救急センターに着任
95年   藤沢市民病院消化器科に着任
98年   同院で救急部を立ち上げる
2001年   同院救急診療科医長に就任
06年   同院救命救急センター副センター長に就任。日本DMAT研修インストラクターに就任
11年   東京医科歯科大学医学部臨床教授に就任
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http://business.nikkeibp.co.jp/article/NBD/20120319/229942/?ST=pc

日本DMAT (Japan Disaster Medical Assistance Team) 事務局HP
http://www.dmat.jp/

[DMATとは?]

DMATとは「災害急性期に活動できる機動性を持った トレーニングを受けた医療チーム」と定義されており  ※平成13年度厚生科学特別研究「日本における災害時派遣医療チーム(DMAT)の標準化に関する研究」報告書より

災害派遣医療チーム Disaster Medical Assistance Team の頭文字をとって略してDMAT(ディーマット)と呼ばれています。

医師、看護師、業務調整員(医師・看護師以外の医療職及び事務職員)で構成され、大規模災害や多傷病者が発生した事故などの現場に、急性期(おおむね48時間以内)に活動できる機動性を持った、専門的な訓練を受けた医療チームです。

1995年1月17日、戦中・戦後を通じて最大の自然災害である、「阪神・淡路大震災」が起こりました。

<被害概要>
1995年1月17日 午前5時46分 マグニチュード7.2
全壊家屋:104,906棟 被災家屋:512,882棟
死者・行方不明者6,425名 負傷者43,772名

この阪神・淡路大震災について、初期医療体制の遅れが考えられ、平時の救急医療レベルの医療が提供されていれば、救命できたと考えられる「避けられた災害死」が500名存在した可能性があったと後に報告されています。

この阪神・淡路大震災で災害医療について多くの課題が浮き彫りとなり、この教訓を生かし、各行政機関、消防、警察、自衛隊と連携しながら救助活動と並行し、医師が災害現場で医療を行う必要性が認識されるようになりました。

“一人でも多くの命を助けよう”  
※平成13年度厚生科学特別研究報告書「日本における災害時派遣医療チーム(DMAT)の標準化に関する研究」報告書より

と厚生労働省により、災害医療派遣チーム、日本DMATが平成17年4月に発足しました。

研修は、独立行政法人国立病院機構災害医療センターにて開始され、平成18年9月には西日本の拠点として兵庫県災害医療センターでの研修が開始されました。

現在では、現場の医療だけでなく、災害時に多くの患者さんが運ばれる、被災地の病院機能を維持、拡充するために、病院の指揮下に入り病院の医療行為を支援させて頂く病院支援や、首都直下型、東海、東南海・南海地震など想定される大地震で多数の重症患者が発生した際に、平時の救急医療レベルを提供するため、被災地の外に搬送する、広域医療搬送など、機動性、専門性を生かした多岐にわたる医療的支援を行います。

http://www.dmat.jp/DMAT.html

日本DMAT活動要領(PDF)  http://www.dmat.jp/katudou.pdf

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