小泉元首相の変節 「オレたちにウソ言ってきた」|ザ・コラム、大久保真紀・編集委員の執筆だったが非常に興味深い内容だった…

今日の朝日新聞朝刊(2013-12-15)に掲載の<ザ・コラム|小泉元首相の変節 「オレたちにウソ言ってきた」>は大久保真紀・編集委員の執筆だったが、非常に興味深い内容だった。 何が、小泉元首相を原発ゼロへと変えさせたのか?

大久保・編集委員は元首相から食事に招待され、その機会に何とか聞き出した。 食事に招待されたのは、彼女が11月に書いた別のコラム記事<ドミニカ移民 小泉談話の持つ力>へのお礼だったそうだが。 そのコラム記事も読んだがなかなかよかった。

さて、その二つのコラム記事クリップして掲載するので、一読してみてはいかがでしょうか――

ザ・コラム_小泉元首相の変節_俺たちにウソ言ってきた(朝日2013-12-15)ザ・コラム: 小泉元首相の変節 「オレたちにウソ言ってきた」
(朝日朝刊 2013-12-15)

「小泉純一郎です。大久保さんいる?」

先月12日の昼、社会部の電話が鳴った。受話器を取ったのは今春入社の新人記者。どぎまぎしながら、取材で外に出ていた私の不在を伝えると、「談話のことを取り上げてくれてありがとう。よろしく伝えておいて」。それだけ言うと、電話は切れた。

その2日前、私はこの欄でドミニカ共和国に移住した人たちのことを取り上げた。「日本政府にだまされた」と移住者が訴えた損害賠償請求訴訟。国が勝訴したのに、当時の小泉首相が「政府として率直に反省し、お詫(わ)び申し上げます」と非を認める談話を出したことで、国の対応は百八十度転換した。私はこう書いた。

「政治家が方向性を打ち出さない限り、官僚は動かない。それが日本の現実」

この言葉が、安倍首相に原発ゼロを迫る小泉さんの琴線に触れたのだろうか。取材を申し込んだときは断ってきたのに。電話をもらったお礼の手紙を出すと、小泉さんは知人を介して、3人で食事でも、と伝えてきた。

首相を退任してからはインタビューもテレビ出演もすべて断っているという。「取材ではないよ」と念を押されたが、直接会ってどうしても聞きたいことがあった。なぜ、いまごろ原発ゼロを声高に叫ぶのだろう。だって首相時代は、CO2削減を理由に原発推進の旗振り役だったのに。

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「やあ、やあ」と言いながら、小泉さんは現れた。71歳には見えない若々しさ。席に着くなり言った。「いとこがブラジルに住んでいる。開拓でドミニカと同じような苦労をしている。ドミニカは(国が)ひどいウソついてたとわかったからな」。2004年に首相としてブラジルを訪問したときは移民に熱烈な歓迎を受けて男泣き。異国で暮らす同胞の思いに胸が詰まったそうだ。

原発推進から原発ゼロに変節したのも、心を揺り動かされた何か大きな理由があるに違いない。そう思って質問した。小泉さんを変えた一番のものは何ですか?

「電事連(電気事業連合会)の言ってること、ウソじゃん」。私の目を見据えて、強い口調でまくしたてた。

「専門家が『安全で、コストが安い』『脱石油にはこれしかない』と言えば信用しますよ。何年もオレたちにウソを言ってきた。これですよ。こっちは原子力の知識なんかないんだから。3・11前はそんな関心もなかったし。あれほど制御しがたいものとは知らなかった」

だまされたと思ったんですか。あえてそう聞くと、「そうだよ。思ったよ」。

じぇじぇじぇ。原発ゼロに背中を押されたのは、官僚や専門家にだまされたことに気づいたからなんだ。まるでオレオレ詐欺の被害者みたい。同じことを何度も尋ねたが、福島の被災者への言及はなかった。

じぇじぇじぇ。5年半も首相を務めた最高権力者がだまされたと嘆き、怒っているとは。でも、よくよく考えれば、日本はとんでもない国だ。正確な判断材料が一国の命運を左右する首相に示されず、安全神話を信じさせられてしまうのだから。小泉さんの変節は人間として何となく納得できるような気がした。

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小泉さんの原発ゼロ発言が注目を浴びたのは、8月末に毎日新聞専門編集委員の山田孝男さんがコラムで取り上げてからだ。「新聞記事の影響の大きさが改めてわかったよ。だって、月2~3回してきた講演で同じこと話してきた。みんな無視したが、あの記事で無視できなくなったんだな」

山田さんのコラムの中でも、小泉さんはこう言っている。「戦はシンガリがいちばん難しいんだよ。撤退が」「昭和の戦争だって、満州(現中国東北部)から撤退すればいいのに、できなかった。『原発を失ったら経済成長できない』と経済界は言うけど、そんなことないね。昔も『満州は日本の生命線』と言ったけど、満州を失ったって日本は発展したじゃないか」

昭和史に詳しい作家の半藤一利さん(83)に聞いてみた。「僕は小泉さんは大嫌い。(首相時代は)独裁になる前のヒトラーのやり口と同じだと感じたから」と前置きした上で「でも、彼の原発ゼロ発言は正論だし満州の例えはその通りだと思う」。

そして、こう説明した。日露戦争の後、日本は手にした権益を守るために大国主義を選んだ。その結果、朝鮮半島を「利益線」にし、さらにそれを守るために、資源や人口問題などいろいろな理由をつけて旧満州を「生命線」とした。「近代史の中での意味を考えると、原発と満州国は同じかもしれない。かつては満州があって国を滅ぼしたが、これからは原発をもつことで国を滅ぼすことになるのではないか」

小泉さんとの会食は3時間近く、話は映画や読書、ゴルフ、演劇にも及んだ。別れ際、抱きかかえていった30本の赤いバラの花束を手渡そうとしたが、体よく固辞された。一切もらわない主義だという。私が「(今日のこと)書きますので」と言うと、小泉さんはアッハハッと高笑いし、片手を上げて去っていった。

(大久保真紀・編集委員)

さて、上記掲載のコラム記事の中で書かれている「ドミニカ共和国に移住した人たち」のことを取り上げたコラム記事は以下に掲載のものです。 これもなかなかいい記事だった。 11月にブログ投稿しよう思っていたが、ついずるずると…  先ずは、一読を――

ザ・コラム: ドミニカ移民 小泉談話の持つ力
(朝日朝刊 2013-11-10)

カリブ海にあるドミニカ共和国を先日、訪ねた。日本人移住者による物故者慰霊祭を取材するためだ。新大陸を発見したコロンブスが最初の航海で足を踏み入れ、初めて町が築かれた地。彼の遺体が首都サントドミンゴに葬られている。

1956年から59年にかけて、日本から249家族1319人が移り住んだ。18ヘクタールの優良農地を無償譲渡するという日本政府の募集に大規模農業を夢見た人たちが、田畑や財産を処分し、鹿児島、福島、高知、山口県などから新天地に向かった。待っていたのは、石ころの山、塩の砂漠、乾燥した荒れ地だった。

土地はもらえず、生活は苦難を極めた。隣国のハイチに不法入国すれば強制的に日本に帰されると思って越境して殺された若者。自分が死ねば妻子を帰してもらえると思って首をつった人など自殺者は10人を超えた。その後、大半が日本に帰国したりブラジルなどに転住したりした。残った47家族がいま、約1千人の日系人社会を築く。

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私が彼らの存在を知ったのは16年前。募集要項の履行を訴えるため移住者16人が集団帰国したときだった。「日本政府のドミニカ移民政策は詐欺同然だ」と口々に語られる話のあまりのひどさに愕然(がくぜん)とした。

その中に、嶽釜徹(たけがまとおる)さん(75)がいた。嶽釜さんは18歳のとき、鹿児島県の農業高校の教頭だった父に連れられ移住、ハイチとの国境地帯で農奴同然の生活を強いられた。「おやじは政府にだまされたかもしれないが、俺はおやじにだまされた」。父に食ってかかる毎日だった。

「話が違う」と先頭に立ち、現地の日本大使館に通い続けた父が逝ったのは87年。「移住問題の解決を頼む」という遺志を継ぎ、何度も来日して政府と交渉を続けた。

無視する政府に対し、移住者たちは2000年、損害賠償を求めて提訴した。原告は計177人。金を出し合い、代表者として嶽釜さんを法廷に送った。裁判の弁論など訪日は計67回。家族で自動車修理工場を営みながら、私費もかなり投入した。

06年6月の東京地裁判決は、国の責任を全面的に認める一方で、20年の除斥期間の経過によって請求権は消滅したとして棄却した。「祖国とは何なのか。自国民をだまし、苦しめ、殺すのが祖国なのか」と悔し涙を見せる嶽釜さんの姿は痛々しかった。

だが、政治が動く。判決内容を聞いた当時の小泉純一郎首相(71)は「実質敗訴だな」と漏らし、国の謝罪を閣議決定、最高200万円の見舞金の支給を決めた。「政府として率直に反省し、お詫(わ)び申し上げます」。素直に非を認めた、極めて珍しい首相談話が出た。原告は控訴を取り下げた。

その裏に、裁判を傍聴し、移住者を支援した元厚生労働相で自民党参院議員の尾辻秀久さん(73)の存在がある。尾辻さんはこの問題に興味をもち、外務省の役人を呼んで説明を求めた。が、「ホームページを見て下さい」。その態度にあきれ、自ら調べるようになり、現地にも足を運んだ。

首相だった小泉さんとは怒鳴り合いのケンカをしたこともある仲だったが、首相談話を出す際、「謝るならきちんと謝って下さい」と言うと、小泉さんは「そうだな」と応じたという。文面は当初の「遺憾」から、率直な謝罪に変わった。「普通の総理ならああは書かない」と尾辻さんは言う。

首相談話は書状として、移住50周年記念式典で移住者一人ひとりに手渡された。

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今回、ドミニカを訪問して「政治の力」を改めて痛感した。以前は移住問題を訴える人たちを歯牙(しが)にもかけなかった現地の大使館や国際協力機構(JICA)事務所の対応が百八十度転換していたのだ。慰霊祭に参列した大使に直接取材を申し込むと、二つ返事でOKが出た。佐藤宗一大使(64)は1時間も時間をとり、移住者問題について「総理談話はバイブル」と語った。植松聡領事(59)も「移住者が訴訟によって勝ち取ったもの。大使館もJICAもいろんな問題があったが、小泉談話を受けて、できることからやっていこうと歩み寄っている。やっと本音で話せるようになった」と話した。その成果として、高齢の移住者世帯に年22万円の保護謝金(特別困窮世帯には55万円)の支給や、助成事業としての医療保険への加入も始まっている。

政治家が方向性を打ち出さない限り、官僚は動かない。それが日本の現実なのだ。原発ゼロ発言で時の人となった小泉さんに、あの時の首相談話について取材したいと申し込んだが、なぜか断られた。

滞在中、嶽釜さんと移住地を訪ね歩いた。首都から西に約250キロのドベルヘは照りつける太陽の下、塩が一面に噴き出た大地が広がっていた。地面に生えた草を口に含むと、塩辛かった。そこから20キロほど北東に行ったネイバは、一面石ころだらけ。57年たったいまもだれも耕作していない。「約束の優良農地をもらえるまで交渉を続けていく」と嶽釜さんがつぶやく。

想像を絶する移住者たちの絶望、その後の努力と苦労……。その地に立ち、私は流れる涙を止めることができなかった。

(大久保真紀・編集委員)