邪馬台国・卑弥呼の墓か?「箸墓古墳」、初の現地調査|日本史・三大ミステリーの一つに迫るメスが初めて入る…

邪馬台国の女王、卑弥呼の墓という説もある奈良県桜井市の「箸墓(はしはか)古墳」で、宮内庁が初めて研究者の立ち入りを認め、現地調査が行われた。 日本史・三大ミステリーの一つに今、メスが入る。 諸説あるが、日本史の三大ミステリーとは「邪馬台国」、「本能寺の変」、「竜馬暗殺」の三つ。 邪馬台国はどこにあったのか? 邪馬台国・近畿説をとなえる研究者は結構いる。 その研究者たちは「箸墓(はしはか)古墳」が卑弥呼の墓である可能性が高いと考える。 もし、卑弥呼の墓であるという手がかりが掴めれば邪馬台国が近畿地方にあったとする有力な根拠になるのだ。

箸墓(はしはか)古墳 1今回の調査が、日本史・三大ミステリーの一つを解き明かす第一歩となることを期待したい…

● 箸墓古墳とは、どのような古墳なのか?

 奈良県の中部、桜井市にある全長およそ280メートルの巨大な前方後円墳で、皇室に関係があるとして陵墓に指定されている。 宮内庁では、この古墳を第7代の孝霊天皇の娘の墓と定めて管理している。

● 皇族の墓が、なぜ、卑弥呼の墓ともいわれるか?

 その説を唱えているのは、邪馬台国が近畿地方にあったと考える研究者達。 古墳がつくられたのが、3世紀半ばか、後半という研究成果があり、卑弥呼が亡くなった時期とほぼ一致することが、最も大きな理由。 また、当時、近畿地方にあった古墳の中で、規模が最も大きく、強大な力を誇った卑弥呼にふさわしいという考えもある。 箸墓古墳が卑弥呼の墓とすれば、邪馬台国が近畿地方にあったとする有力な根拠にもなる。

● 研究者が古墳に立ち入るのは、今回が初めてなのか?

 箸墓古墳も他の*陵墓と同じく、皇室の祭祀、祭りをする場所として、一般の人の立ち入りが厳しく制限されている。 このため研究者たちは、*陵墓には、古代国家の成立を考える上で欠かせない文化財としての価値があると訴え、公開を求めて宮内庁と交渉を重ねてきまた。 最近になって、研究のための立ち入りが一部で認められるようになり、大きな目標としていた箸墓古墳の調査が実現することになった。 (*陵墓 ☛  後述の「陵墓(りょうぼ)とは?」参照。)

● 2月20日)の調査はどのように行われるのか?

 研究者の団体から代表の16人が参加し、古墳のすその部分をぐるりと歩いて、盛り土の形や特徴を観察することになっている。 途中で発掘をしたり、土器を採取したりすることは、認められていないが、古墳を間近に見ることで、図面ではわからない盛り土の特徴などが確認できるかもしれないという。

 陵墓(りょうぼ)とは?

⇒ 天皇陵(てんのうりょう)は、天皇の墓。天皇陵として宮内庁が指定している古墳は、考古学者の調査を含め、一般の立ち入りは厳しく制限されている。▼皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)第27条により、天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所を陵(みささぎ・りょう)、その他の皇太子や親王などの皇族を葬る所を墓(はか・ぼ)と呼ぶ。なお、同附則第3項で、当時治定されていた陵及び墓は、第27条の陵及び墓とされた。▼そのため、実際には天皇・皇后・太皇太后・皇太后の陵の他にも、「尊称天皇」・「追尊天皇」・「尊称皇后」の墓所や、いわゆる「神代三代」(日向三代、天津日高彦火瓊瓊杵尊・天津日高彦火火出見尊・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊)の墓所、日本武尊の墓所及び飯豊青皇女(飯豊天皇とも)の墓所は「陵」を名乗っている。▼これらのほか、宮内庁が現在管理しているものには、分骨所・火葬塚・灰塚など陵に準じるもの、髪・歯・爪などを納めた髪歯爪塔などの一種の供養塔、被葬者を確定できないものの皇族の墓所の可能性が考えられる陵墓参考地などがあり、一般にはこれらを総称して陵墓(りょうぼ)という。▼陵墓に指定されている古墳のうち、天皇陵は41基、皇后陵は11基、皇太子などの墓は34基であり、天皇、皇后、皇子等を合葬したものを差し引くと合計85基ある。(参考: Wikipedia  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%99%B5)

以下、この件に関するNHKニュース――

箸墓古墳で現地調査 土器など確認
(NHK 2月20日17時49分)

邪馬台国の女王、卑弥呼の墓という説もある奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳で、宮内庁が初めて研究者の立ち入りを認め、現地調査が行われました。
調査では土器や石敷きなどが確認できたということで、参加した研究者は「古墳が造られた時期について検討を深めるための貴重な資料になる」としています。

箸墓古墳は全長およそ280メートルの最も古い時期の大型の前方後円墳で、3世紀中ごろに亡くなったとされる邪馬台国の女王、卑弥呼の墓という説もあります。
天皇や皇族を埋葬した「陵墓」に指定されているため、原則として立ち入ることができませんが、研究者の団体から要望を受けた宮内庁が初めて調査を認め、20日午前、考古学などの研究者16人が宮内庁の職員の先導で敷地の中に入りました。

調査では発掘や土器をとることなどはできず、研究者は1時間半ほどかけて古墳のすその部分を歩き、詳しい形や地表に姿を現しているものがないかを観察していました。参加した研究者によりますと、この日の調査では、多くの土器が散乱している様子や古墳の一部に石敷きが広がっているのが確認できたということです。

調査に参加した日本考古学協会の森岡秀人理事は「古墳が築かれた時期について検討を深めるための貴重な資料になる。陵墓は国民にとっての文化遺産でもあり、今後も宮内庁と協力態勢を取っていきたい」と話していました。

20日は、箸墓古墳の次の世代の有力者の墓と考えられている奈良県天理市の大型の前方後円墳、西殿塚古墳でも初めての調査が行われました。 研究者らは2つの古墳の調査内容についてさらに検討を進め、前方後円墳の成り立ちの解明などにつなげたいとしています。

「前方後円墳の変遷知るうえで貴重」

日本考古学協会の森岡秀人理事は「箸墓と西殿塚の2つの古墳は最も古い時期の大型前方後円墳だが、箸墓に比べて西殿塚のほうがつくりがしっかりしている。これは前方後円墳の変遷を知る上で貴重で、箸墓は西殿塚よりも1、2世代古いだろう」と話しています。 また、奈良県立橿原考古学研究所の附属博物館の学芸課長で、古代学研究会の今尾文昭陵墓委員は「今回、直接、敷地の中を見たことで古墳のつくりがうかがえた。宮内庁には今後も公開をお願いし、見る機会を増やしたり範囲を広げたりしてもらいたい」と話していました。

箸墓古墳とは

「箸墓古墳」は、古墳時代初期、3世紀中ごろから後半にかけての最も古い時期の古墳とみられ、この地域から全国に広まった前方後円墳のモデルと考えられています。古墳の周辺には、これまでに大型の建物跡などが見つかっている「纒向(まきむく)遺跡」があり、邪馬台国の有力な候補地の1つとされています。 こうしたことから、「邪馬台国畿内説」をとる研究者の間では、箸墓古墳は、3世紀中ごろに亡くなったとされる女王・卑弥呼の墓だとする説が出ています。 箸墓古墳は、宮内庁が「倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひ・ももそひめのみこと)」の墓として管理し、これまで研究者の立ち入りは認められていませんでした。 邪馬台国がどこにあったのかや前方後円墳の成り立ちを知るうえで極めて重要な古墳ですが、研究の手がかりは限られ、周辺から出土した土器や外部からの測量などをもとに、造られた時期や埋葬された人物像などが議論されてきました。

箸墓古墳の調査の意義

「日本書紀」には、「昼は人が造り、夜は神が造った」という記述があります。 この箸墓古墳、近年では邪馬台国の女王、卑弥呼の墓ではないかという説が話題となっています。

箸墓古墳から出土した土器に付いていた炭素14という放射性物質の量を測定し、年代を科学的に調べたところ、西暦240年から260年ごろのものだったという研究成果が、4年前、国立歴史民俗博物館によって発表されました。卑弥呼が亡くなったのは248年ごろとされているため、古墳を造るのにかかる時間を考慮したとしても年代はちょうど当てはまります。

さらに、この時期には箸墓古墳ほど大きな前方後円墳はほかにないため、邪馬台国の女王の卑弥呼の墓である可能性が高まったとされたのです。 一方、こうした説に対して、邪馬台国が九州にあると考える研究者を中心に「同じ時代に近畿地方に巨大な墓を築く力を持った別の人物がいた可能性も考えられる」として、反対意見も出されています。また、国立歴史民俗博物館の広瀬和雄教授は「卑弥呼の墓の可能性は高いものの、今の段階では断定はできない。 例えば『魏志倭人伝』の記述では卑弥呼の墓は150メートルくらいあるとされており、280メートルある箸墓古墳との差は大きい」と指摘しています。 そのうえで箸墓古墳の歴史的な意義について、「3世紀中ごろ、日本列島の広い範囲にわたって前方後円墳の造営を特徴とする地域のリーダーが連携する1つの国家ができたと考えられる。その中心を担ったのが箸墓古墳などを造った有力な首長で、箸墓のある奈良盆地南東部が、当時、政治の中心地だったことは間違いない。

箸墓古墳は最初の前方後円墳として全国に造られた前方後円墳のモデルになったと考えられ、現地での詳細な調査が重要だ」と話しています。そして今回の立ち入り調査については、「古墳の立体感は図面では伝わりにくく、現地で踏査しないと分からないことも多い。古墳のすその部分であっても入って歩くだけで重要な情報が得られる可能性があり、立ち入り調査は今後の古墳研究において大きな一歩ではないか」と話しています。

公開までの経緯

天皇や皇后が埋葬される「陵」と、そのほかの皇族が葬られたという「墓」は全国に740ありますが、宮内庁は「静安と尊厳を保つ必要がある」として立ち入りを禁じてきました。 これに対して、研究者は長年にわたり古代の陵墓が持つ文化財としての価値を訴え、宮内庁と地道に交渉を重ねてきました。 こうした交渉の末、宮内庁も、陵墓の護岸工事などに伴う修理が行われた場合には、研究者に現場を公開するようになり、平成10年には、奈良市の安康天皇陵でも護岸工事に伴う調査の様子が研究者らに公開されました。

さらに平成17年には、日本考古学協会など15の学会が、合わせて11の陵墓について立ち入り調査を認めるよう宮内庁に要望しました。 平成19年、研究者らの要望に応じて宮内庁は内規を改定し、発掘などを伴わず外形を確認するだけなどという条件で、陵墓への立ち入りを認めました。 そして、翌年の平成20年、奈良市にある「神功皇后陵」への立ち入り調査を認めて以来、年に1回のペースで陵墓などを対象に研究調査が行われています。

今回の箸墓古墳への立ち入り調査について、宮内庁の陵墓課では「学会からの要望を受けて準備を進めてきたが、今回、対応できる状況が整ったため立ち入り調査を許可した。世間的にはいろいろな説があるようだが、宮内庁としては『倭迹迹日百襲姫命』の墓として陵墓に指定し、管理している。今後も陵墓の静安と尊厳を保ちつつ、それを損なわない範囲で個別に対応していきたい」と話しています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130220/k10015655321000.html

“箸墓”陵墓を巡り実った熱意
(NHK 2月15日9時5分)

箸墓(はしはか)古墳 2邪馬台国の女王・卑弥呼が葬られているという説もあり、研究者から注目を集めてきた奈良県桜井市の箸墓古墳。 皇室に関連があるとして*陵墓に指定され、これまで立ち入ることはできませんでしたが、今月20日、初めて立ち入りが実現することになりました。 陵墓を巡って宮内庁と研究者の間で重ねられてきた長年にわたる交渉。 今回の実現の背景には、貴重な文化遺産を後世に引き継いでいきたいという熱意がありました。

■ 箸墓古墳とは

奈良県桜井市で車を走らせると、道路沿いに、こんもりとした山のような箸墓古墳が見えてきます。 全長およそ280メートル。宮内庁が昭和40年代に採取した埴輪などから、日本で最も古い時期に造られた巨大古墳と考えられています。 その時期を3世紀中ごろとみる研究者の間から上がっているのが、「箸墓=卑弥呼の墓」説です。 いわゆる邪馬台国論争を決着に導く決定的な証拠はありませんが、箸墓古墳は、その規模や年代を考えれば、後の大和王権の成立過程などを考えるうえでも欠かすことのできない「鍵」となる古墳であることは疑う余地がありません。

■ 陵墓=“立ち入り禁止”

しかし、箸墓古墳は、皇室に関係がある「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」の墓として宮内庁が陵墓に指定しています。 陵墓は、原則として立ち入ることが禁止されているため、極めて注目度の高い古墳にもかかわらず、その研究は、宮内庁が発表した採取資料や周辺部の調査などに頼らざるをえないのが実情でした。

■ 宮内庁と研究者は

箸墓(はしはか)古墳 3天皇や皇后が埋葬される「陵」とそのほかの皇族が葬られたという「墓」は全国におよそ700。宮内庁が立ち入りを禁じている理由は、「静ひつと尊厳を保つ必要がある」というものです。 これに対して研究者は、古代の陵墓が持つ文化財としての価値を訴え、「せめて近くからでも観察することはできないか」と、宮内庁と地道に交渉を重ねてきました。

こうした交渉の末、宮内庁も、陵墓の護岸工事などに伴う修理が行われた場合には、研究者に現場を公開するようになりました。 さらに事態が進んだのは平成19年。宮内庁は内規を改定し、発掘を伴わず外形を確認するだけなどという条件で、“研究者側からの要望に応じる形で”陵墓への立ち入りを認めたのです。 その際、陵墓の1段目までは上がることも認められ、研究者が、陵墓を覆っているふき石や、落ちている埴輪の姿を間近で観察することも可能になりました。

こうしたなか、箸墓古墳でも初めての立ち入りが認められることになり、研究者の間では、新たな知見が得られるのではないかという期待が高まっています。 日本考古学協会の理事で陵墓担当の森岡秀人さんは、「宮内庁との話し合いを一歩一歩前進させてきた成果。ようやくここまで来たかという思いだ」と話しています。

■ 陵墓の大切さを広く伝える

箸墓(はしはか)古墳 4一方、文化財の保護という点では課題も残されています。 巨大な古墳である陵墓には、多くの場合、周濠があり、水が墳丘のすそを削ってしまいます。また、台風の際などに木が倒れて、そのまま修復が進まないケースもあるといいます。

森岡さんは、箸墓古墳などの研究が進み、文化財としての価値が明らかになることで、陵墓の保護にもつながるのではないかと考えています。

「陵墓は国民の共有の財産だとも言える。箸墓古墳などへの立ち入り、そして、その成果を研究者たちが広く公開することによって、文化遺産としての大切さを知ってもらうことが大切だ。そうした取り組みのなかから、陵墓を守ろうという機運も生まれてくるのではないか」(森岡さん)。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130215/k10015534761000.html

卑弥呼の墓か 研究者が箸墓古墳調査へ
(NHK 2月14日4時20分)

箸墓(はしはか)古墳 5邪馬台国の女王、卑弥呼の墓という説もある奈良県桜井市の箸墓古墳について、管理している宮内庁が初めて研究者の立ち入りを認め、今月20日に調査が行われることになりました。

箸墓古墳は、全長およそ280メートルの最も古い時期の大型の前方後円墳で、3世紀中ごろに亡くなったとされる邪馬台国の女王、卑弥呼の墓という説もあります。
陵墓に指定されているため立ち入ることができず、これまでは周辺の調査などをもとに研究が進められてきましたが、宮内庁が研究者の団体からの要望を受け、今回初めて調査を認めることになりました。 調査は今月20日に行われ、研究者が古墳に立ち入って形などを確認することになっていますが、発掘や土器などの採取はできないということです。 また、奈良県天理市にある大型の前方後円墳「西殿塚古墳」でも同じ日に調査が行われます。

箸墓(はしはか)古墳 6古墳時代に詳しい大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎館長は「研究者として陵墓は公開されるべきだと考えている。2つの古墳は古い時代の前方後円墳で、まだ墳丘の形態なども分かっていない。複数の研究者が見ることで、新たな知見が得られるものと期待している」と話しています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130214/k10015505051000.html

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邪馬台国・卑弥呼の墓か?「箸墓古墳」、初の現地調査|日本史・三大ミステリーの一つに迫るメスが初めて入る…」への1件のフィードバック

  1. 考古学では、年代及び年齢の計算は不得意とは思いませんが、文献考古学系の研究者より、ヤマトモモソ姫の年代及び年齢の最新情報(2013_2_21現在)を提供したいと思います。ご参考になれば幸陣です。
    なお、この情報は、ウエッブでは公開しておりません。(ゴメン)
    【ヤマトヒメの年表】
    ・垂仁天皇12年(西暦201年)9月16日、ヤマト姫生まれる
    ・景行天皇20年(西暦253年)      、百八歳(五十二歳)
    ・景行天理44年(西暦264年)      、百三十二歳(六十三歳)
      【注記】 (  )内に、新年代、新歳を追加させて戴きました。
                                        以上   

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